幸せをもたらす青い鳥

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私たちは義務教育を受けている間に、どの教科も平均的に良い成績を取る人が優秀な人なのだ、という刷り込みを受けています。刷り込みを受けたので当然のことですが、「よく遊んでよく学ぶ子が良い子」がそのまま「よく働いてよく遊ぶ人が優秀な人」にすり替わっている社会人が大多数です。これが現代の「幸せ感」の基礎になっています。

休日が盆と正月に数日ずつしか与えられなかった昔の奉公人や、映画の「ああ野麦峠」で見る女工さんたちは、自分たちを不幸だと思っていたでしょうか? 比較するための情報が存在するときにだけ「幸せ」とか「不幸」の概念が浮上します。

多くの人の幸せの基準は、テレビや雑誌や新聞などのマスメディアで提供される情報です。マスメディアに流す情報を創っている人たちも同じ刷り込みを受けているので、提供される情報が限られるはずなのです。従って、大衆の「生き甲斐」の基準が偏って、「生き方」の選択肢が極端に少なくなってしまいます。人と自分を比較する文化が、そのまま、自殺と「いじめ」の増加にもつながっています。「いじめ」の原因はとても根深いもので、大人の価値観のマジョリティーがその根源です。

情報が氾濫している中で、次々に新しいものに手を出したくなります。現代の幸せ感からすると、江戸時代の士農工商に縛られていた人々が不幸せに感じられるかもしれませんが、どんな仕事をしているのか、を重要視せず、与えられた仕事をどのように全うしているか、を重要視していたわけですから、仕事を選ぶことができない江戸時代の人々が自分たちを不幸だと思っていたはずがないのです。

宇多田ヒカルの「日曜の朝」という曲の中にこんな歌詞があります。
......幸せとか 不幸だとか 基本的に間違ったコンセプト......
まだ若い彼女はどこまでの経験や哲学であの歌詞を書いたのでしょうか。5~6年前、この歌詞に気付いたときに、とても気になりました。

情報が氾濫する現代だから、捨てるべき情報を見抜くための選択眼を磨き、次々に不要な情報を捨て去らない限り、永遠に青い鳥を追いかける人生を歩むことになります。メーテルリンンクの「青い鳥」の結末を覚えていますか? 思い出の国や未来の国を訪ね歩いても見つからなかった青い鳥なのに、実は自分たちが飼っている鳥が青いことに気付く、という結末です。解釈はいろいろありますが、過去や未来のどこにもいない青い鳥が、今、目の前にいることに気付くという深い深いお話です。

労働は何かを得るための手段ではなく、労働そのものに大きな価値があります。私はよく、仕事を禅寺の修行僧の作務にすり替えて考えます。思い出がたくさんあったり、目標がしっかりと定まっていることが幸せ感をもたらすのではなく、「今を生きること」そのものがすでに幸せをもたらすことに気付くことで、人生に寂寞を感じなくなるはずです。仏教もキリスト教もイスラム教も教えようとしていることに大差はありません。

2012.8.14  Hitoshi Shirata

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